82 年生まれ、キム・ジヨン

読んで楽しい本じゃなかった。耳が痛くて、心が苦しくなった。

韓国社会で生きる女性の日常を描いた小説なんだけど、小説というよりドキュメンタリーを見てる感じだった。リアルすぎて、目を背けたくなる瞬間があった。

一番刺さったのは、日常に潜んでる小さな差別や偏見の描写。職場での何気ない一言とか、家族からの期待とか、社会の無言のプレッシャーとか。そういうのが積み重なって、主人公を追い詰めていく。

読みながら、自分も同じことしてきたんじゃないかって考えてた。女性というラベルを貼って、その人本人を見ずに言葉や態度をかけてしまったんじゃないかって。悪気はなかったつもりでも、相手を傷つけてたかもしれない。そう思うと怖くなった。

主人公だけじゃなくて、彼女の母親や友人たちもみんな同じように苦しんでる。それが世代を超えて続いてるっていうのが、つらかった。

この本を読んで思ったのは、自分の中にある無意識の偏見にもっと敏感にならないとってこと。女性だけじゃなくて偏見やラベルで人を見ずに、その人本人を見るようにしよう。もし自分が誰かを傷つけるようなことしてたら、ちゃんと認めて改めたい。

この本を読んだ以上、「知らなかった」とは言えなくなった。

食欲が止まらない

週に1、2回、食欲が止まらなくなる。

夜ご飯を食べた後なのに、何かが外れたみたいに食べ続けてしまう。問題なのは、食べたくて食べてるんじゃなくて、止められないこと。終わった後は後悔しかない。自分が化け物みたいで嫌になる。

なんで止められないんだろう。

たぶん原因は「動画見ながら食べる」と「早食い」。見ながら食べると満足感がなくて、ずっと食べちゃう。早食いは満腹になる前に食べすぎる。

あと、朝と昼をちゃんと食べてないのもある。夜まで我慢しすぎて、限界が来て暴走してる気がする。

朝昼しっかり食べて、夜は動画消してゆっくり食べる。これを試してみよう。

データエンジニアになって変わったこと

業務システムの開発からデータ基盤チームに異動して、仕事の進め方が大きく変わった。

業務システムは「日々の業務を正確に実行する」のが目的。データの作成・更新・削除が頻繁に起きるから、正規化してデータの整合性を保つ設計が基本だった。

一方、データウェアハウスは「データを分析して意思決定に活用する」のが目的。読み取りしか発生しないので、分析する人がわかりやすいように、あえて非正規化してテーブル結合を減らす設計にする。

業務システム開発では、「この機能を作って」と要件が比較的はっきりしていた。でもデータ基盤では、ユーザー自身も何が欲しいかわかっていないことが多い。

なぜなら、ユーザーは普段の業務で手一杯。本当はデータを見て意思決定したいけど、分析する時間がない。だから「このデータが見たい」といった要望は上がってきづらい。

待っているだけでは何も始まらない。だから自分からユーザーのビジネスを理解して、「こういうデータが見えたら役立ちませんか?」と提案していく。要件を引き出すのではなく、要件を一緒に作る感覚に近い。

正直、最初は億劫だった。でも、ユーザーのビジネスモデルを理解していく中で、データ基盤が持つ価値が見えてきた。

業務システムは業務を支えるインフラだけど、データ基盤はビジネスの意思決定そのものに関わる。主体的に価値を提案していくこのスタイルに、今はやりがいを感じている。

AI との対話が分析されてるの、ちょっと怖い

Clio: A system for privacy-preserving insights into real-world AI use

Clio は Claude がユーザーのプライバシーを守りながら、AI の利用状況を把握する仕組み。個人情報を取り除いて、似た内容ごとにグルーピングして、誰が何を聞いたかではなく「どんな話題が多いのか」を分析している。

clio crustring

ユーザーのプライバシーは保護されているけど、こういう集合的なデータって、使い方次第ではかなり危険。

世界中で何が話題になっているのか、どんな不安やニーズが広がっているのか、新しい技術やアイデアがどこで生まれつつあるのか。そういう情報が AI への対話からは、検索エンジンや SNS とは違った形で、もっと生々しく見えてくる気がする。

でも考えてみたら、これって Google や Meta も同じようなことをしてきたのかな。ただ、以前はこっそりやっていたのが、今は透明性を持って公開されているだけマシなのかもしれない。

AI のプロバイダーは、これまでのプラットフォーマーとは比べ物にならないくらい、人々の内面に近い情報を持つようになっていく。それをどう管理していくのか。国際的な第三者機関とか必要になるのかな。

そんなこと、今のインターネット世界で可能なのかわからないけど。

何でそんなに鍛えてるの?

「なんで体を鍛えてるの?」ってめちゃくちゃ聞かれてるけど、全然わからないから「モテるために」って毎回答えてる。でも本当になんのためにやっているんだろう?

高校の 2 年生から野球でのパフォーマンスを上げるために筋トレを始めて、そこから 10 年ぐらいずっと体を鍛えてる。時期によって目的とか動機は変わってると思うけど、「かっこよくなって、モテるため」が最初の 1 ~ 3 年ぐらいはあったかな。

5 年ぐらい経ってくると生活の一部になって、やらないと気持ち悪くなった。マックス何キロをあげるとか、大会に出るみたいな目標も作ることなく、ただただ筋トレを続けた。その道のプロの人には笑われるかもしれないけど、側から見ると目標もないのになんでそんなに鍛えてるの?と思われるぐらいはハードな筋トレをしていたと思う。

今も筋トレもしてるけど、ランニングにハマってるので当時ほどは高頻度で筋トレはしていない。ただ体を鍛えるという行為はやめていない。

運動するとエンドルフィンの分泌による気分の高揚とかストレス解消効果があるらしい。他にも運動することによって起こる化学反応によって体が健康になるらしい。「健康のため」「ストレス解消のため」という理由は確かになんだけど、あんまりしっくり来ないんだよね。限界まで筋トレを追い込むから怪我のリスクとかオーバーワークになったりして、健康を害していたこともあったからね。

体を強くするために、鍛えているのかもな。体への知識が少しずつ増えて、体が強いとはどういうことかが少しずつ分かって、今の知識で当時の自分を振り返った時に目的に合っていない行動がありすぎて、なんのためにやってるかわかんなくなってるのかも。

色々難しく考えすぎかな、笑

とりあえず体を強くしたいと思ってるのかも?じゃあなんで強くしたいのと聞かれると思考の沼にハマりそうだからそれはまた考えよう。

収納グッズを買わない

家をきれいにしている過程でいろんなものを捨てた。捨てながら思ったのは「組み合わせで購入しているものが多い」ってこと。

明るいブルーのデニムを捨てた時にそれに合う T シャツや靴下や靴を捨てれた。キッチンの多すぎる調味料や使わないカトラリーやお皿を捨てるとそれらを収納していた棚を捨てられた。 一つ捨てられるとそれと組み合わせて使っていたものを捨てやすくなる。そして捨てられると気持ちが楽になる。

棚やラックみたいな収納グッズは、便利だけどものが増えるきっかけになる。自分の把握できないものが増えて、探し物が増えてストレスになる。 ものが増えて、収納グッズを買いたくなったら何かを捨てるタイミング。これって結構なパラダイムシフトだよね

やさしさに気づくのが難しい

「優しくできない」という話を同僚がしてくれた。

「相手の事を考えて、何もしない」ことが多く、「目に見える優しい行為ができない」と言っていた。 自分はこの話をしている同僚が優しいなと思った。多分それは相手の事を考えているからだと思う。

「相手の事を考える」が優しいという定義なのであれば、優しいかどうかを判断するのは自分にしかできないことになる。だって「相手のことを考えて、何もしない」と「何もしない」は、外から同じに見えるからね。 同僚は相手のことを考えて、選択した行動(何もしないも含む)が他の人が考える優しい行動と違うから少し悩んでいたのかもしれない。

相手の優しさに気づくのって難しすぎるね。というかほぼ無理な気がしてきた。でも出来るだけ、気づきたい。

でも相手の優しさは出来るだけ、気づきたい。そうなるとやっぱり相手の行動や言動の背景を推測ではなくて、直接聞かないといけないね。

やさしいがつづかない

本屋でこのタイトルを見て、気になって冒頭を読むと「大丈夫、やさしいはつづかないのですよ」と書いてあった。 「初対面の人には優しくできるのに、慣れ親しんだ人には優しくできない」とか「人から優しいと言われることがあるけど、それはどういう意味なんだろう?」とか疑問に思ってたから気になって購入。

本書では「優しい」を「コントロール権を手放し、相手にゆだねること。そして、その結果起こることの責任を引き受けること」と定義していた。優しさは感情の問題ではなく、「コントロールの問題」なのだと。 そして反対に「相手のコントロールを奪うこと」は優しさの対極に位置する。

「相手をコントロールしたい」という欲望は「優しさ」と比べて長続きしやすい。自分には心当たりがある。

少しでも優しくいるために「相手をコントロールしない」「相手の優しさに気づき、感謝すること」から始めてみる。

初めてのフルマラソン
初めてのフルマラソン

2025 年 11 月、下関海響マラソンで初めてのフルマラソンを完走した。

今年の 1 月ごろからランニングを少しずつ始めて、会社の先輩に「フルマラソン出てみない?」と誘ってもらって、少しずつ距離を伸ばして走れるようになって、そしてフルマラソンを走りきった。自分のペースで走り続けて、継続して進めることができて、それがフルマラソンの 3 時間 38 分という思っていたよりかなり早いペースでゴールできて、自分が誇らしかった。

アップダウン 下関海響マラソンコース

下関海響マラソンは、瀬戸内海の海沿いを走るコースだった。前半は平坦で、後半からアップダウンが激しくなるコース。途中でトンネルを走って周りが静かになり、ランナーの足音が反響するところや、バイパスか高速道路で海が広がるところが印象的だった。

トンネルでは、足音やリズムが自分の体に響く気がして、ランニングに集中することができた。音楽を聴きながら走る予定だったんだけど、想像以上にランニングが気持ちよくて、イヤホンをつけずに走った。8km ぐらいで体が温まって、動きやすくなって、海沿いの風や太陽の温かさが心地よくて、このまま何も聴かずに走り続けたいという感覚になった。

走っている間、基本的にずっと沿道に人がいてくれた。声をかけてくれなかったとしても、誰かが見てくれているという感覚が心地よかった。そして途中途中で太鼓や吹奏楽部の人が応援してくれて、すごくテンションが上がった。

ペース

後半は、息が上がっているわけでもないし、痛いところもなかったけど、足が重くなっている感覚はあった。ただそんなにペースは落ちることなく走れた。

30km ぐらいで「あ、思ったより走れている」と気づいた。以前 30km 走ったときはもっと遅くて足ももっと重かったから。それからは初めての距離だったけど、想像以上に走れていることが嬉しくて、気持ちいいという感覚が常にあった。

ゴールの瞬間

フィニッシュラインを越えたときは、ただひたすらに嬉しかった。ゴールして、走るのをやめた瞬間に足の心地よい疲労感や重さがきて、それが「やりきったな〜」という感覚だった。

達成感は、ゴールしてから徐々に大きくなっていった。このためだけに走ってきたわけではないけど、形としてフルマラソンを完走したことに、とてつもない幸福感と達成感を感じている。

1月からの積み重ね

最初は 30〜40 分くらいから走り始めた。2025 年だけで 979.3km、93 回走った。週に 2.2 回のペース。10 月が大会の 1 ヶ月前だったので、30km 走をしたこともあって一番距離を踏んだ。涼しくなってきて走りやすくなったのもあった。

走り続けるうちに、走ることの気持ちよさを実感してきた。「走らなきゃいけない」というよりは、どちらかというと「走りたい」と思うことが多かった。習慣になりつつある。

1 年に 1 回ぐらいはフルマラソンに出たいと思っている。ただ記録を残したいというより、自分のライフスタイルにランニングを入れたいという気持ちが強い。気持ちよくて、自分を落ち着かせてくれるから。

今回の下関海響マラソンで一番心に残っているのは、走ってるときの感覚だった。天気がよく太陽が暖かくて風も気持ちよくて海も綺麗でそんな中を自分の無理のないペースで走るのは本当に気持ちよかった。

フルマラソンを走っている間は、ひたすら気持ちよかったし、走ることだけに集中しきっていた時間だった。自分がフルマラソンを走れたんだという達成感と幸福感を、いま深く感じてる。フルマラソンを誘ってくれた先輩と一緒に走ってくれた会社の同僚に感謝だね。